昭和59年07月01日 月次祭
今日から夏期信行が始まりました。私は参加できませんでしたけれども、本当は今日、日曜でもあり皆さん大変朝の御祈念から、そして昼の信行大変ご参拝が多かったと言う事でございますが。毎年この夏期信行には、教典の中から毎日一ヶ条づつそれも、ミニ御理解として頂いておりましたが。去年はとうとうできませんでした。今年は私しがそれを担当さしてもらう事になりましたが。今年は第一は、「神国の人に生まれて、神と皇上との大恩を知らぬこと。」と
もうあらゆる角度から言われたり説かれておりまして、また先年の教典感話にもこの二回分のミニ御理解が出ております。もうその通りですからときおもない事でございますけど。この御教え深さと言うか広さと言うか、また頂いていけば限りがないと言う事を、たびたびのお話を頂ながら思わして貰います。私はお道の信心は先ずなんというても、私共は神の氏子としての自覚が出来て来ること。勿論人の世の世界をそのままこれは日本だけの事だはない。いわゆるこの世を仮の世として頂く。
そしてそこに地球上に住まわせて頂いておる人間一人一人が、神の氏子としての自覚に立って、金光大神が仰られる生神を目指して行こうと。人の道を間違えたり誤ったりした人を、それこそ犬畜生にも劣り果てた、見下げ果てた人間だと申します。人の道を間違え、それこそ犬畜生にも劣り果てた様な人間に勿論なってはなりませんが。金光大神の道はいわゆる人の道ではなくて、いよいよ生神を目指しての道であります。教えを行じていっておりますと、それを気付かして貰います。
先ずはやはり教えを頂いて行かなきゃなりません。私ももう数十年前椛目で人が助かりだした。私の話を聞いてどんどん助かって行かれ、お参りも沢山ありました。その時分にいろんな、まぁ批判と言うか悪口も言われましたが、中でも当時椛目の大坪はありゃ人非人だと。とういう生のその悪口を聞かして貰った時等は、やっぱり無念でした残念でした。だから神様にその事をお届けさして頂きましたら、神様はそうじゃと仰った。
なら私は人非人、けれどもお前の人非人は、人非人とは人に非ずとこういう風に書いてあります様に。人間の世界から神の世界を目指す、神に変わって行く意味の人非人だと。もう私しはそれを頂いて。もう人が謗るなら謗れ悪口を言うなら言えと、これが生神の道であるならば、まぁと言う様な思いでその当時修行さして頂いたもんでございます。その思いは今も変わりません。
一切の修行が本当に生神への精進、そして体験として頂かせて頂く事は、なるほどこの世は信仰だなぁ、なるほど私共は神様の氏子だなぁ、という思いをいよいよ強うしていくばかりであります。この世で私共が生神になれるんだと言う事は、まぁおぼつかない事でございますけれども、願いをやはりそこに置いて魂の世界に入っても、いうならばそうした精進を怠らず、それこそいよいよ喜びの、いとも安心の御霊として生神への精進をする事だと自分でも思います。
昨日は病院行きでございましたが。午前中に北野の久富さん達が兄弟でやって参りました。(?)あげてそれこそ泣き泣きやってまいりました。私ははすんでおりますその教室に、親先生母が難しいと言われております。どうぞお取次ぎをお願いしますと言う事であった。それで御祈念しながらお取次ぎさして頂きましたら。あちらの看護婦さんが不信がっておりましたが、それから約小一時間しました頃またやってまいりました。親先生止まっておった心臓が動きだしました。
大変苦しんでおったのもおかげで楽なようにあります。取り合えずお礼を申し上げて下さいと言うことであった。本当に神様のお働きこりゃ生き死にの事だけではない、全ての御縁に本当に神様の働きを持ってすると。本当に私共の考えでは思いも着かない働きがそこに起るもんでございますが。昨日の遅くに御国替えのおかげを頂いたと言うて、また今度こちらの方へ兄弟でお届けに出てまいりました。
久富先生の家内、もう77歳からなるそうですが。たいした信心も出来たわけではなかったけれども、最後の土壇場になって、いわゆる金光大神のお取次ぎを頂いて、そして金光大神のお取次ぎの働きを充分人も感じずにはおれない、そうした不思議な働きを頂いて、安らかな御国替えのおかげを頂いたと言う。お礼を申させて頂いた事でございます。昨夜は月末御礼神話かいでございましたから。神話会がここで有っております時に、和子先生がそこのまぁ石庭がございますね。
その天地巌があの配石してある庭ですここの庭は。その天地巌の周囲をね。火の玉がうろつき廻っているところを、まぁ拝んだと言うのである。もうまさしく久冨さんの御霊がもうちょうやく合楽の御霊舎にお静まりになるのであろうと、言うて皆んなで話したと言う話を、今朝から若い先生が致しまして。ほんとにさもあろうと私は思いました。生前はたいした信心は出来なかったけれども、御縁を頂いておったおかげで最後の最後までお取次ぎを頂いて。
これからは金光いわゆる邪魔になる肉体がなくなりました、魂の世界に入ってまぁそれこそまぁ精進する事であろう、喜びの御霊安心の御霊として精進する事であろうと。そういうあの事実を私共たくさん知っておりますが。私共がこの世でおかげを受けると言う事でなくて、この信心があの世にも持って行けて、あの世でもやはり生神金光大神の境地を目指して、魂が飛躍を遂げて精進して行くという。
そこんところの段取りは私共はしとかなきゃならないと思いますよ。ね。ちなみに告別式は明日の二時半からここで行われる事になっております。とにかくお道の信心は、申します様に普通ただ人が良い人に悪い事を教えるからと、言うなら人の道を踏み外さん様にと言うのではなくて。どこまでもそこからね人世神世と教祖が仰っておられます。神の世の時勢を受けておる私達ですから、神の氏子としての働きが出来る様な。
まぁ手段と申しますか、ま教祖の神様は此方ばかりが生神ではない、皆んながその通りのおかげが受けられると仰せられる。その通りのおかげを出来る出来んは別として、目指さして頂くと言う事が私しは真の信心を目指すことにであり。真の人の在り方であると思います。せっかくいわゆる熱烈な修行精神に元ずいた、合楽特有の昼の御祈念の模様などを見せて頂きますと。もうそれこそ神様と氏子とが一つになって、いわゆる神願成就を願っておる訳でございますが。
それが私共は生神への手掛りを求め、精進し修行さして頂いておるんだと言う自覚が出来て参りましたら。一段と修行が有り難いものになって来ると思いますですね。魂のまぁ遍歴と言う風な事を申します。私は魂が清めれれていくに従って、その住む世界が変わって来る。信心は手習いと同じで、信心は手習いと同じで一段一段進んで行くと仰る。その一段一段魂が垢抜けして行く、そこんところをは自分でも感じれれる様にならんと、本当の信心の喜びとか楽しさと言うものはないと思うですね。
そこんところを折角神国の下に生まれて、その神国に住まわせて頂く喜びと、又はそこに住む人間が神の氏子としての精進したとしての、幸せを感じさして貰えるおかげを頂きたいと思います。魂の世界いわゆる現世の生を受けておる人間の世界、それと魂の世界とを切り離してはならん。魂の世界のある事を私共段々信じて、その魂をいよいよ清めて行く手立て、魂は高められていく喜びを信心によって、体験さして頂けると言う事はお道の信心さして頂く者の、それが喜びでなからなければならんと思います。
そこにこう人の世の、ま、有り方と言うか習いと言うか、本当に考えてみますとおかげを頂いたかのように見えて、それは束の間のそれこそ石鹸の泡の様に、出来ては消え出来ては消えしていく世界だけは私共知っておりますが。金光大神はそれではならない。いよいよ一年まさり代まさりに魂の世界に入っては尚更の事と。生き生きとして心が生神のやくとうを絶やさんで済む様なおかげを頂くために、どうしても真の信心を目指さなければなりません。いうなら真の道を知らなければいけません。
昔平重盛という人は「主ならんと欲すれば功ならず。功ならんと欲すれば狭ならず」と嘆かれたと言う話が残っております。そんなに矛盾がある、あってはならないです。信心によるあり方と言うものをいうなら魂一つに絞って信心をさしせて頂いておりますと。主になる事は功にもなる。例え一時は人非人と言われる様な事があっても。心が生神を目指しておる限り、必ず言うならば本当の意味においての親孝行と言う。親と名がつきゃ生みの親もありゃ義理の親もある。教えの親もある。
そのどの親にでも喜んで貰える孝行できると言う道が、私しは金光大神の道だと真の道だと思います。矛盾する事がない、いよいよ北野の中村さんの、いうておられた事ではないですけれども。信心はもうお参りのし儲けお供えのし儲け、今日は朝の御祈念に私は思うた。夏期信行は皆さんこうして、夜の月例祭ももこうしてかかっておらなきゃならないもう決して決してそれが無駄にゃなりません。本当にお参りのし儲けであったというおかげが頂かれます。
そこのところを一つお互いがようく分らして貰い、体験さして頂いて。いよいよ限りなくいうならはいしがみやの精進を怠ってはならん、この世で出来るところは、あの世でもそれを続けて行けれる、基礎とか土台と言うものを作っておかなきゃなりません。それにはただ人の世の習いでは本当の幸せは有り得ません。で言うて来た親孝行では本当の孝行になりません。それこそ親孝行しよると君には不詳となります。じゃ皆さんどうすればこうならして頂くじゃなくて。
そこに一点に信心に絞らしてもろうて行く限り。皆んなが立ち行くどの親にでも孝行が出来る、道が開けて参ります。不思議な不思議な信心の世界、そういう世界をいろいろはっきりと体認させて頂く。そうしていよいよ信心の精進に、それこそ幾ら精進させて頂いても、精進のし過ぎと言う事はない。事実をね体験さしてもろうて私共の生涯の信心とさせて頂きたい。と言う風に思います。
どうぞよろしく。